昭和五十六年十月六日 朝の御理解


御理解第四十二節
「これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる。」


 昨日、隅田武彦という大変な熱心な熱烈な御信心をなさった先生ですが、八十六歳をもって御帰幽になったという御通知を御子息の光太郎先生から受けました。皆さんも充分御承知の事と思いますが、金光学園の、いわゆる金光高校ですよね、の校長を長年無報酬で、あのう御用なさったという方なんです。ここにも一回お話に来て頂いた事がございますが、この方の信心は、「信心は御用なり」もうこれ一点張りでしたね。ね、全国いろいろ会社の勤めやら何やらかで、あちら確か北海道辺り迄も、転勤してお出でられると、そこの教会が隅田先生が行かれると、必ず繁盛したんですね。行く所行く所で、その御用をなさったんです。
 私は、この信心は御用、ここにもお出でられました時に、何か記念に一つ書いておこうと言うて書かれたのが大きく「信心は御用なり」という、確か修行生の先生方の部屋に、まあ軸としておりますから掛けておると思いますが。信心は御用なりである。もう極端な、もう信心は、いうなら御用だと、こう言う。私は、どうか、それには反発という訳ではないけれども、何かこう共鳴する事がでけない感じでしたが。
 御用というものは、勿論いるけれども、それはさせて頂かずにはおれん。おかげを受けて、そして御用さしてもらわにゃあおれんという御用でなからなければ、御用すりゃあ助かるといったような感じ方になりかねない。信心は御用なり。御用すりゃあ助かるかという、助かるとかおかげにすぐ直結しようとするところに、私共の考え方の違いを感じたのですけれども。
 最近、私はここで筑水の青年会の記念集会がここでございましたね。仙台の、あのうお医者さんの何とか言う先生が見えてお話しになったのです。私は、あれ以来、この御用という事が、確かにおかげを頂くという事が実感するようになりました。
 と言うのは、成程せずにはおれんという御用には、勿論お徳もつきます。おかげも頂けます。けども御用すりゃ助かるという、そのような事では、そのおかげを頂かんならんけん御用しよると言う事になる。というふうに、まあ感じとりましたけども、今度青年会の、まあここの連合会の会長を、ここの安武先生がしておりまして、大変な事ですから、二十何所の教会をまとめていかなきゃならないだけでも大変だったと思うんですけれども、もうそれこそ、もう一心でしたですね。もう一心不乱でした。その、あのう会があそこまで成就する為に、皆さんも御承知のように、かつて何十年間、青年会の、いわば会やら、又は記念の会があったけど、今度合楽であった会程素晴らしい会はなかったと、皆が言う位に素晴らしか会でした。なら、それがどうかと言うと、中心になる安武先生が、もう一生懸命に御用に打ち込まれた事です。
 ね、これなどは御用せにゃんから御用するじゃなくて、そういう一つの責任に於いて御用されたんですよね。お粗末御無礼があっちゃならん、疎漏があってはならないと。もう兎に角、あのう目の細かい、まあ非常な、その間(かん)にはいろいろな問題もありましたけれども、それを乗り越え乗り越え、もうそれこそ一心不乱の御用でした。そりゃもう私共が、こっちから感じておりました。そん為には、何回も何回も教会の信者ですから、もう合楽教会でしたもん、その幹部の方達の会合なんかが。それですから、段々、段々、その安武先生の、その一生懸命の御用ぶりに皆が共鳴しだした。あちらこちらの教会の、いわゆる青年会長幹部の人達が、それでまあ、ああいう事がでけたんですけれども、会が終って信心、先生の信心が一回りも二回りも大きゅうなられたなあという感じでした。私は、此頃三十日の御礼神話会の時に先生が発表されるのを聞いて、その事を通して言われる訳じゃないけれども、信心がしっかりしてきただけじゃなくて一回り大きゅうなられたなあ。確かに連合会の会長としての貫禄も出来られたなあという感じでした。
 これなんかは、御用さしてもらえば、おかげ頂くといったようなもんじゃない。これは責任に於いて折角御用さしてもらうなら、打ち込んで真心いっぱいでという一念です。成程、隅田先生が言うておられりゃ、もう残しておられるという事がいいでしょうね。これは先生の専売特許のようなお言葉です。ね、信心は御用なりと極言をしておられる。ここにも皆さん、一遍、確か修行生部屋の一番向こうの端の部屋に掛けてあると思いますから、まあ御覧になるといいです。信心は御用なり、じゃっとろ。(今、光明先生の部屋にあります。)いや、そうじゃつとろ。(はい)信心は御用なりです。
 ですから、私は、その、それをそう感じきれなかったけれども、今度の安武先生の、それから、なら御用さしてもらう時、御用さしてもらおうたい。させて貰わにゃおられんといったようなものじゃなかった訳。ね、兎に角あのう会長を命じられた事を御神命として受けて、そしてその間に、いろいろまあ感じられるところがあったんですね。今度の青年会がでけて大会をされるのが十三年目か?。二十五回で連合会長、連合青年会長が十三代目に当たるんだそうです。合楽から、初めて、ならそういう青年会長が出た訳なんです。その十三代目に当たるという事で、非常に、これは神様の願いがかかっておる事だというふうに、まあ実感された事も事実ですね。
 これは本気で御用しなければ、神様のいうならば願いが成就すると言われる十三、合楽ではしかも、その十三代目の連合会長を、今度自分がつとめるようになった。そして記念祭であったと、記念の講演会であったと、言うような事で、まあそういう合楽的受け取り方が、先生をして、まあ本気にならせたんでしょうね。しかもあらゆる難関を乗り越えての事で、まああったという事。なかなか難しいですもんね。青年会がするけんで、青年会だけが生み出すだけじゃでけん。各教会長の先生方の同意を得なければならんのです。又、いろいろまあ解消もある訳です。そういう中ですから、大変まあ難しくもあったでしょうけれども、確かに十三代目の会長にふさわしい、いうなら御神願が、あのようにして成就したというより他にない程しに素晴らしい会でしたよね。これは皆さんも、あのう当日聞かれた方は、それを感じられただろうと思う。ね、ですから確かに信心は御用なりである。
 勿論おかげを頂いて、どうかさしてもらわずにゃおられないという御用は、勿論有難いけれどもね。そうではなくて何かそこにです、なら皆さんが、まあ昨日信徒会長の秋永先生が最後に発表しとりましたが、先日御祈念、夜の御祈念をさせて頂く時に、つらつらいろいろの事を思うて、こりゃ親先生が言われるように本当に、もう全ての事が合楽理念をもってする他はないなあと実感した。それまでは実感しなかった訳、言うなら。そしたらもう物凄いおいさみがあったという発表をしとります。
 なら皆さんでもそうでしょうが。合楽理念、合楽理念と言うて、口を開けば合楽だ、合楽理念と言ってるけれども、皆さんの生活の全てが合楽理念をもって出けておるかと言うと、出けていない。ね、だから、その御神前でそれを感じた時に、まあ大きな神様の言うならば、お心を動かしたという事になるでしょうか。信徒会長である、お前が、今どんそれに気が付いたかとは神様はおっしゃてない訳です。ね、それに本気で気付いたという事を、こよなく神様は喜んで下さる、下さったなあという感じなんです。
 ですからね、言うなら、そういう言うなら特に秋永先生の場合なんか信徒会長としての責任に於いて、皆さんはそういう、なら合楽理念による、言うならば世界万国津々浦々に合楽理念をもって広がりを広げていこうというような大きな願いをもっておる、なら合楽の信奉者の一人一人がです、その責任に於いて本当に本気で御用に打ち込むという事になったら、やはり信心は御用なりという事が言えると思うですね。私は、この御用という事は、まあ殆ど言ってこなかったですね。よそでは御用すりゃ助かる。御用すりゃ助かる。だから御用すりゃ助かるじゃなくて、そういう一つの責任に於いての御用。合楽の信奉者である、そして合楽理念の勉強さして頂いて、そしてその合楽理念による助かりを人にも伝えていこうという責任に於いての皆さん一人一人の、言わば思いがそこに出てくる時にね、そこに御用に打ち込まれる時にですね、その御用は確かに、信心は御用なりという事がはっきり言えると思う。御用すりゃ助かると言うのじゃない。助かる助からんは別である。その責任に於いての御用である。ね、これ程信心するのに、どうしてこのような事が起きてくるであろうかというような時、その受け止め方です。
 昨日、久富正義先生が発表しとりましたが、久富建設に、まあ言うなら大きな問題がおこった。そん時に、私が最近実感しとる事は、自分の信心がもう一回り大きくならせて下さい、という願いを立てておる時ですから、はあこれによって一回り大きくならせて下さる修行だなあと思うたち。だから普通でいうなら大変心配であったり困ったりする事でしょうけれども、それが淡々として、それが受けておられるという事が有難いという話をしてました。ね、だから総代として一回り大きくなると言う事は、総代として一回り大きな御用。総代としての御用が出来るという事でしょうが。それば本気で祈っておる時、願っておる時ですから、起きてくる問題が、ははあこれで一回り大きくならせて下さるんだなあと言う、むしろ心ん中に喜びをもって受けてる訳です。これ程信心しよるのに、どうしてこげなこつが起こったじゃろかというふうに思ってない訳、ね。
 ですから、私は思うのに、成程いろんな問題が、これ程の信心という程しに、まあ言うなら目のつまったお参りにも、御用にも皆さんが、まあ打ち込んで来たとしましょうか、それでいて、なおかつ、まあどうしてと思うような事があったら、私はこりゃ本気で御用に打ち込む事だと思うですね。
 こりゃ私自身、あのう体験をいくらも持っておる事でございます。どうにもしようがないという時には、御用に打ち込むより他にないですもんね。そこに確かに、言うならば、もうどうにも出来ないという時にです、まあ先日から申しますように、あのう渡り鳥の止まり木の話をしましたね。もういよいよ翼が飛べないというごたる時にゃ必ずそこには流木があるとか、何か止まり木があるというね。そういう一つの理に基づく事にもなりますし。だからそういう時にゃ、もうその問題に打ち込まずに御用に本気で打ち込むという事です。
 こりゃまあ信心が足りんからじゃあと言うて、ならお参りを一遍参ったつを二偏参るといったような事ではなくてですね、もうつういっぱいの信心させて頂いとって、こういう事がおこってくるんだから、そこにどうしてと思うような心もおきてくる訳ですけれども、そういう時に私共の願いが大きくなっておると、それが正義先生じゃないけれども、どっこいという程頑張って受けた訳でもないような、ははあこれで一回り大きゅうならせて頂くなあという心の状態があったという訳なんです。
 ですから、例えばそこまでは行けなくしても、ならいろんな問題があるとか、おこったとか、難儀に直面しておるという時にです、もうこれ以上の信心は形の上では出来んのだから、ならもうその事は棚に上げたような気持ちで御用に打ち込む事なんですね。それが、なら隅田先生が言われる、信心は御用なりとは、そういう時に言われたものであろう。御自身がなら本当に御用一筋でおかげ頂かれてね、自分のもう八十六才であんなさいましたそうですが、いろんな職を離れて、この方というものは、言うなら無報酬で、言うなら御用なさった。学園の、今度の告別式も学園葬だそうです。だから、無報酬で打ち込まれたと。今お住まいになって居る見事なお家があるんですけれども、こりゃ金光家から提供されておるお家だそうです。先生がいつも言っておられた、もう私は何んにも不自由しない。お金がいる時にはお金が頂ける。それは、私の信心御用からだと、まあ言っておられたが、意味が分かりませんでしたけれども、私が、今日皆さんに聞いて頂いておる私の心の状態というものは、成程御用というのは、せずにはおれんというものであると説かれたです。合楽では、おかげを頂いて信心が分かってきたら、御用はせずにはおれんという。御用すりゃ助かるというふうにゃいかなかった。
 ところが今言うように、安武先生のそれじゃないけれども、その責任に於いて打ち込まれた御用に、そこに信心が一回りも二回りも大きくなられたね。まあ、おかげの初めというのを、が、あのう終ってからすぐ御本部にお礼参拝された。お礼参拝しとられる間に、家では安産のおかげを頂いておる。自分の本当にもう何も分からず知らんなり。そしてもう一つ不思議な事がありました。というのは自動車で行かれて何か写真機を、あのう自動車のボディーの上に置き忘れて、そして随分長く走られたんだそうです。そしたら他の車から、あん後の方に、あんた写真機がのっとるよ、ち言うちから教えられたち言う。
 こんなこつなんかでも、どげん考えても、それこそ神様が支えておられたと言わにゃおれんような、まあおかげも頂いたという話でしたが。その後においても、やはりその信心が一回り大きくなられたという感じですね。
 あの青年会してみると、ああいう本当に責任をもってやらねばならんといったような御用に本気で打ち込む御用こそが、信心は御用なりと言われたのではないかというふうに、又確かにそうです。と思います。
 御用はせずにはおれないじゃなくて、もうこれ程信心するのに、どうしてこんな事が起こってくるといったような時には、もうその事は、もう難儀な事はそのまま言うなら棚に上げて、もうどうにも仕様がないのだから、そういう時にどうしてこげなこつが起こるじゃろうかと言うたら、どうしてこげなこつが起こるじゃろうかになってしまいますよ。だからそういう時には、もう本当に打ち込んで御用にもう専念する事です。そういう私は、まあ責任に於いての御用、又はそういう今日のご理解から言うと、どうしてこのような事が起こってというような時には、その事は、もう別に、そして本気で御用に打ち込むという事。という事を、今日は隅田先生の、あのうお国替えという事を聞かせて頂きまして、今日の御理解をどんなふうに頂くかと思うたら、四十二番、第四十二節でしょう。やっぱりこりゃシニ(四、二)と書いちゃるから、はあこりゃ隅田先生の事だなあと、すぐこう感じましたから、隅田先生の御信心を、まあ聞いてもらいましたが。合楽理念に、なら御用の内容について変わったという事になりますから、どうぞ大切にして下さい。どうぞ。
 今度の婦人大会なんかでも幹部の方達が、何日も何日もああした打ち込んだ御用が出来られたという事が、その御用がでけた事が大変有難しとしておられるという事もやっぱり御用に打ち込む事に、その神様が喜びを与えられるという事を感じますね。確かにそうですよ。誰かしようと言ったようなものじゃない。御用は本当に積極的になされなけりゃならんという事ですね。どうぞ。